6.ブロツキーの日本における活動



 ブロツキーは『中国時報』に載せられた自伝に依ると「『BEAUTIFUL JAPAN』の撮影では150万フィートの撮影をした」といっています。フィルムは現在秒24コマで撮影するのに対し、この作品が製作された1910年代(大正年間)、通常毎秒16コマで撮影していたので、この作品も同じように秒16コマで撮影されたものと推定して換算してみると約416時間におよぶ分量になります。前述のように現在残っている『BEAUTIFUL JAPAN』の映像はわずか140分ぶんです。ブロツキーにより編集されタイトルまで用意されたものが140分であり、未編集部分は日本側に残されたのか、紛失したのか、あるいは全て編集は終わりタイトルを付けたものが全てブロツキーからモリス大使に譲渡されたがその後大部分が紛失したのか、それは記録に残っておらず現在不明です。

 『BEAUTIFUL JAPAN』編集の段階でブロツキーと日本側に意見の相違があったとブロツキー自身が語っているのですが、彼が編集について意見を交わしていた人といえば、現在判明しているところではトーマス栗原だと断言しても間違いはないでしょう。しかし、既に述べてきたように、この企画は日本国として製作を望み、浅野コンツェルン総師浅野総一郎が経済負担をし、アメリカ国籍のユダヤ人のブロツキーが撮影を受け持ったという複雑に入り組んだ組織により実施された映画製作ですから、そのいずれかが強く自分の目的を押し通せば、矛盾が亀裂となり、破綻を来すことは目に見えていたといえるでしょう。

 結果的にこの企画に製作半ばから加わったトーマス栗原とブロツキーの間もギクシャクし、その後栗原は映画製作について文章を書き残すこともたびたびありましたが、何故か帰国直後に係わったこの作品の製作、顛末については何も述べていないようです。結果的に1920年(大正9年)、ブロツキーは東洋フィルム会社の社屋、撮影所を機材込みで全て浅野良三に託して日本を去っています。

 日本では、大正初期のこの撮影以後、関東大震災、第2次世界大戦戦災、その後の連合軍駐留による災禍等の他に、通常の火災、水害、管轄移動等があり、そのたびに公式文書は焼失、散逸し、また破棄されることもあった聞いています。それにしても残念ながら、我が国では記録の保管に関しては概して乱暴、無神経な扱いが目立つように思います。しかし、日本政府が『BEAUTIFUL JAPAN』を日本紹介映画として立派に仕上げるつもりで破格の待遇でブロツキーを支援した揚げ句に、日本側と製作者の意見が対立し映像の仕上げ段階でごたついてしまったことを考えると、『BEAUTIFUL JAPAN』の公式な記録に関しては意図的に抹殺、破棄したことも考えられます。このことは、『BEAUTIFUL JAPAN』の映像の、例え一部とはいえ当時の駐日米国大使の個人の持ちものから発見されたことと併せて考える必要があるでしょう。

 ブロツキーの眼には中国なり日本はどのように映ったのでしょうか。異文化の世界をどのように感じたか、詳しい備忘録でも残しておいてくれたらと思いますが、自分の半生を語ったカリフォルニアの裁判所の記録でさえも、文章化するのに裁判所書記の助けを必要としたといわれるところから、この陳述以外に文書記録を残した可能性は先ず望めません。彼の撮った映像こそが彼の目に映った当時の東アジアで、映像作品こそがそれを探る唯一の手がかりといえようかと思います。しかし、『BEATIFUL JAPAN』の場合、それとても中途半端にしか残っていないわけで、だからこそ残っている映像を分析することに重要な意味があると思いました。

 現存する『BEATIFUL JAPAN』のデータを中国で撮ったドキュメンタリーと比較してみることにより、ひょっとすると『BEATIFUL JAPAN』の欠落部分について何か判るかもしれないと思いつきました。中国で撮影した『A TRIP THROUGH CHINA』は米国各地(現在分かっているところではカリフォルニア州の主要都市及び小都市、アリゾナ、ネヴァダ、シカゴ、ニューヨーク)で上映講演会が行われ、その際の新聞記録が記事として残りました。その内の10紙誌くらいが現在私の手元に集っています。記事の中には『A Trip Through China』の内容を詳しく取り上げて記述したものがり、それを『BEATIFUL JAPAN』の各シーンと比較してみた結果が以下です。



 『A Trip Through China』                          『BEATIFUL JAPAN』
   中国人の生活                              日本人の生活の一旦
   習慣 該当シーン少なし
   衣装及び信仰 格別衣裳を撮ったものはない            信仰に関しては神道を紹介し、寺に詣でる信
                                          者、日光巡礼者を写している
   揚げ物を売りの女性                          琵琶湖疎水のインクライン 工事場のヨイトマケ イヌが曳く荷車

煙突        養殖真珠の核入れ     ウシが曳く荷車

   工業               浅野コンツェルンの工場の作業
   スポーツ             運動会シーン
   労働               浅野コンツェルンの工場作業
                    ヨイトマケ、市場の作業、真珠養殖場等
   荷物の運送(運河航行舟、 琵琶湖インクライン、牛荷車、犬荷車
   駱駝・驢馬に荷物を乗せ移動、 人力車
   荷車、人力車)
   港湾労働者            港湾労働者
   樵の仕事             該当シーンなし
   大道芸              火渡り、刃渡り、街頭絵描き等
   鵜飼い              鵜飼い
   公園               公園花見風景
サーカス団の街頭行進    刃渡りの見せ物       花見客の嵐山川下り  皇居前を行進する軍人たち

台風の後の水害       団扇づくり  町中の大掃除  鵜に紐を掛ける鵜匠
   街中               街頭風景
   大学               該当シーンなし
   病院               該当シーンなし
   盲聾唖学校            該当シーンなし
   筍、竹の利用法          団扇作り
   パゴダ              神社仏閣多数
   明時代の墓            該当シーンなし
   水上生活者と台風の被害      水上生活者はないが、水害の被害は描いてい                    る。
   浮浪児              該当シーンなし
   広東の婚儀、葬儀         婚儀、葬儀はない
   家の守り神信仰          該当シーンなし
   北京:紫禁城           皇居を外側から撮っている
   清皇帝の一族           皇族の映像は一切なし
   兵隊               皇居を縦隊行進する兵隊の姿はあり
   競馬               該当シーンなし
   YMCA大運動会         横浜の元街小学校運動会
   万里の長城とその他の重要都市の 該当シーンなし
   要塞
   濠                皇居のお濠


 この『A TRIP THROUGH CHINA』の数シーンのスティル写真を、先に述べた『中国時報』の執筆記者張氏は台北の電影資料館から入手され紙面に転載されています。

 撮影した対象に関していうと『A TRIP THROUGH CHINA』で撮られた内容と、『BEATIFUL JAPAN』スミソニアン版で実際に日本で撮影している内容にはかなり似通った対象が選ばれ撮られています。つまり、中国で撮影したものと同じ様なシーンを日本でも撮影することで、中国と日本の比較をして本人が秘かに楽しんでいたことも考えられます。あるいは本人が自伝で述べているように、米中の人々に日本を知って貰うための映像として作ったというならば、観衆にとって比較、個別認識しやすいということも考えて撮影計画が練られたとも考えられます。

 『BEATIFUL JAPAN』は多くの撮影済みのフィルムが紛失していることが分かっていますが、スミソニアン版に該当映像が見当たらない例えば婚儀、葬儀、競馬といった映像が日本でも撮られていたかも知れません。中国の作品と日本の作品で一番違っている点は、後に述べますが『BEATIFUL JAPAN』スミソニアン版では、各種工場の作業シーンが他のシーンとの比率を考えるとかなり長い点です。

 アメリカを出発点として大国中国を巡って記録した作品のためにブロツキーが使ったフィルムの長さが10万フィートであることを考えると、日本で、たとえ北海道から九州まで移動撮影したといっても「150万フィート使って撮影した」16)という本人の申告は少々大袈裟な数字のような気がします。最もこれは、単に文章にする時点、あるいは翻訳する時点、印刷する時点で起きた単純な間違えで、本人がこの数字を本当に申告したわけではない可能性もあります。

 日本の政府が、西欧と対等につきあってゆけるように立派に成長した日本の姿を映し出して貰えるであろうと期待し、伝統文化を紹介するよい機会になると目論んでブロツキー一行の撮影旅行を支援したのに対し、ブロツキーが好んで撮ったのは、水害にもめげずに生きる街の人々、過酷な労働に従事する港湾労働者、真珠採取の稚拙な器具に命を懸ける男の痩せた身体、温泉場に身体をこごめて行き交う人々、花見の屋外の宴に集まる家族、祭りで人々に踊りを見せる芸人、職人達の誇り高き仕事ぶり等々でした。

 カメラは時代の真実を写し取る機械ですが、特定の対象にレンズを向け、焦点を絞るのは意志を持った人間であるということをブロツキーの映像は私たちに再認識させるような気がします。ロシアの寒村に発し、大きな船で油や埃にまみれて船員生活を送り、アメリカではサーカスに潜り込み生き抜き、中国で焼き討ちを食らうような生活を経験したブロツキーの手にしたカメラの焦点は、実に細やかに日本の一般市民、あるいは底辺で生きる人々とその生活に当てられています。

 ブロツキーの存在を知ってから、少なくとも日本において映像『BEAUTIFUL JAPAN』が、企画され、撮影された事実さえも含めて、その存在がきれいに70有余年も人々の記憶から忘れ去られていた原因が何処にあるのかということが気になっていました。今回の調査で、『中国時報』の記事に接し、ブロツキー自身は『BEAUTIFUL JAPAN』の作品名こそ明記していないようですが、日本で日本紹介映像を撮影したこと、そしてその企画が編集段階で頓挫した事実を告白していたことを知りました。

 この企画にはブロツキーの意志が大きく働いていたことは間違いないとしても、日本側でも日本紹介映画を作り、アジア大陸の東端に位置する単なるアジアの島国という認識から、近代化され、しかも固有歴史文化を誇る国であることを西欧諸国に知らせ、興味を喚起し、足を運んでもらわなくてはならない時期に来ているという意識を持って、鉄道院を特別後援者に仕立て、この日本紹介映画製作に協力したことはジャパン・ツーリスト・ビューローの『回顧録』にある通りであるとするならば、その努力の結果が完成映画作品として記録されていなのはおかしいのではないかと気になり、調査を進めてきました。

 その結果、ブロツキーのスミソニアン版とは別に1920年12月23日、トーマス栗原監督の編集による『美しき日本』が、大正活映という映画会社の同社製作第2本目の作品として東京、浅草千代田館という映画館で発表されたという記録が見つかりました。残念ながら、この作品についてはどのくらいの長さだとか、内容はどのようなものだったかといった詳細は一切不明で、作品原版も見つかっておらず、この作品を見たという証言も、もちろん外国に送って見せる努力が払われたという記録も現在のところ見当たりません。ただ、発表されたという記録があるのみですが、日本側としても『美しい日本』を完成させたことが分かったことだけでも大きな収穫といわなくてはならないかと思っています。

 トーマス栗原は『活動雑誌』1921年(大正10年)10月号に「日本を世界に紹介するには」と題した一文を発表しています。それによると、外国に日本を知らせるためには、名所旧跡を映像に記録するより、一人の「現代日本女性の生活を朝から晩までの種々の家庭生活を如実に撮影したもの」の方が有効であるといい、日本人の心情はドキュメンタリーでは表現できるものではなく、むしろ「日本の古典を取り扱った時代物の人情めいたものの方が確か」だと述べています。『美しい日本』は彼が編集したものの、素材はブロツキーが撮り貯めたために不本意だったということでしょうか。


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掲載開始 2000.01.11.

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