9.ブロツキーの幻の業績と残された謎



ブロツキーによる日本周遊撮影と大書された特別列車

 ブロツキー本人が述べている通り、例え最終的に目的に適った日本紹介映画の製作が完成に至らなかったにせよ、『BEAUTIFUL JAPAN』は日本政府の委託を受けて製作に取りかかった作品でした。そして、撮影されたフィルムが140分ぶん現存しています。『BEAUTIFUL JAPAN』の各シーンが日本のどこで撮られたかどのような内容のものであるかを別項「スミソニアン版『BEAUTIFUL JAPAN』 北から南へ」で一覧しますが、現在見られる『BEAUTIFUL JAPAN』の映像を見る限り、大ざっぱ分けて下記の3種類の別の意志により撮影されたように思います。

 1.日本政府の意向を受けて撮影されたシーン
    京都、奈良、日光、相撲、出初式等々

 2.浅野総一郎の意向を受けて撮影されたシーン
    造船所、セメント工場、コークス工場等々

 3.ブロツキー自身の意志で撮影されたシーン
    横浜市内、水害風景、芸者、農家、サーカス、火渡り等々

 2、3の撮影に関する文書記録が現在まで見つかっていないことについて、多少不審な感じを受けながらも致し方ない事情もありそうな気がしますが、それにしても1については、正式文書としてどこかに記録が残っているべきではないかと時間を掛けて探してきました。仕事を委託するといっても、日本政府ないしそれに準ずる機関が、映画製作を外国人に委託する場合、多少は予算の計上も必要であったに違いないし、日本の事情に疎い外国人に撮影して貰いたい対象を箇条書きにでもして提示する必要もあったであろうし、例えば北海道白老アイヌの場合のように相手方にも準備が必要な場合の交渉をし、日程を決定し撮影班に通達し、通訳兼添乗員の手配をし、列車のダイヤを操作する等々の様々な作業があった筈ですから、その記録の一端でも残っていなければならないと思うのです。

 しかし、鉄道院の改編先の国鉄さえ現在は解散し、その後地域別に民営化され幾つかの企業に別れてしまった今、また交通公社にしても呼称は同一でも組織の改編が数回行われているところから、古い資料を見つけだすことが大変難しいと実感しています。「交通博物館」「日本交通公社資料室」に問い合わせてみましたが、「そのような古い資料はない」といういとも簡単な返事が何の考慮の時間も掛けずに出てくるばかりで、国として計画したこのような企画に国の財産である列車が組み込まれ、特別ダイヤが組まれ、その列車が映像に将に映っていることなどに全く興味も示されませんでした。こうした問題に関して真剣に取り上げ、手元にあるかも知れない古い資料を共に探し、記録を豊かなものにすることに協力してくださる機関、関係者はないものだろうかと現在思案中です。

 『BEAUTIFUL JAPAN』では、カメラが街中に出て市井の人々を撮っていますが、スティルの写真でさえ当時としてはそうそう普及していなかった時代ですから、動く映像用の35ミリの大型のカメラを据えて外国人の撮影隊が人々の行動を記録するとなれば、ごく自然に人の表情が硬くなろうかと思うのですが、実に自然な表情が撮れています。また、東京、神戸などの都市を撮影する場合、小高いところからカメラをゆっくりパンさせ、なかなか落ち着いたカメラ運びをして、見る側に分かりやすい映像作りをしています。こうしたブロツキーの駆使した撮影技術は、全て来日する前に中国でドキュメンタリーを撮りながら経験的に身につけた技術なのでしょう。

 しかし、この作品の撮影はかなり大掛かりで、長期にわたって継続して日本の各地を移動しながら行われたところから、実際には日本人が大勢係わった筈です。『BEAUTIFUL JAPAN』の編集がブロツキーと日本側で合意が得られず問題が起こった時点で、「この撮影については一切話すことはまかりならぬ」と上司より箝口令が言い渡された人間もいたでしょうが、撮影に立ち会った人の中には、自分が体験した興味深い撮影について証言を残されている関係者がないとは限らず、そのような証言を今後も探してゆこうと思っています。

 横浜に建てた東洋フィルム会社(略号TFK。別名、東洋フィルム・コンパニー、ブロツキー活動写真会社、オリエント・フィルム会社等々)を機材等一切合切込みで浅野良三に譲渡した後のブロツキーの足跡は、僅かに1925年までサンフランシスコのディレクトリーにその存在が記されているだけで、その後の足取りは沓として知れません。また、彼にまつわることで何とも残念なことは、『A TRIP THROUGH CHINA』およびその他の彼が製作に関わった作品が『BEAUTIFUL JAPAN』以外、人目に触れることがなかったことです。今回、『A TRIP THROUGH CHINA』のビデオ・コピーが台北国家電影資料館に存在することが判明したので、原版の存在、保管された背景も分かってくるものと期待しています。

 皮肉なことに、『A TRIP THROUGH CHINA』については何が撮られたかがほぼ分かっていながら撮影された映像を見ることができなかったのに対し、『BEAUTIFUL JAPAN』については映像の一部が残っているものの実際には何が撮られたのか詳しいデータが残っていません。その上,この度の調査で『BEAUTIFUL JAPAN』の日本版ともいえる栗原監督の編集になる『美しき日本』が存在が確認されましたが、発表されていることまで、確認できたにもかかわらず、実際には映像は現存せず、『BEAUTIFUL JAPAN』と比較できないことは何とも残念です。この日本紹介映画は、元来外客誘致目的に沿って製作されたので、トーマス栗原の『美しき日本』が完成されたということは、同作品が外国に運ばれ上映され、有効に利用されていなければ目的に適わないはずですから、その記録を見付けることも今後の課題といえましょう。

 日本で仕事をしている間にブロツキーは撮影した映像を持参して数度アメリカに売り込みに出かけています。『A TRIP THROUGH CHINA』はアメリカでの売り込みに成功し、全米の各地で上映されたことが新聞記事となって残っていますが、日本で撮った作品ないし作品の断片の上映記録は全く見つかっていません。その上、『BEAUTIFUL JAPAN』に関しては、日本でも少なくとも試写など行ったであろうと思うのですが、例えば、浅野総一郎の二人の子息泰次郎・良三が両親の金婚記念として1926年(大正15年)に発行した『浅野総一郎』(浅野文庫)19)などを見ても、身近な映像製作者が作った映画作品を鑑賞したといった類の記述は見つかりません。

 この本は615頁からなる年譜やら写真やらがふんだんに挿入され、巻頭には大隈重信、高橋是清、後藤新平、団琢磨等から寄せられた献辞、渋沢栄一の書が載せられたかなり詳しい総一郎の伝記で、浅野総一郎に関することは彼の係わった事業の一つ一つはもちろん、小さな、ごく個人的なエピソードまで載せてあるにも関わらず、浅野の関係企業の工場等の撮影を行った事実やブロツキーについての記述は一行も見当たりません。

駐日米国大使 ローランド・モリス一家

 今後の調査として幾人か関係者をピックアップして、備忘録とか公開されている日記などに関係記述はないかどうか探れないものかと思っています。もちろん、浅野総一郎、良三の二氏の記録は再度チェックする必要があります。関係者の例としては、勿論『BEAUTIFUL JAPAN』の断片ながら保管していた当時の駐日米国大使ローランド・モリスをはじめ、サンフランシスコに居住していたであろうと思われるブロツキー夫人、あるいは現在その存在の有無さえ分かっていないブロツキー二世も対象とする必要があるでしょう。

 大正活映が業務を畳んだ際、中谷義一郎、金指英一両氏が整理を行い、残務整理記録は「中谷興行部」に収めたと金指氏が記しています。中谷氏は、元々鉄道院の職員であり、東洋汽船を経て大正活映の創設から同社の事業に係わり、最終的に残務整理に当たったことを考えると、ブロツキーの日本における動向を一番よく知っていた日本人の一人ではないかと思われます。したがって「中谷興行部」とはどのような機関で、何処にあるのか追跡調査が必要です。

 直接今般の調査には関係ないかも知れませんが、ブロツキーがクラーク某と行なったミュージカル公演、ニッケルオデオン(5セントの入場料で映画が楽しめる映画館)の活動についてはアメリカに記録が残っているであろうと思われます。また、1906年、アメリカ、サンフランシスコを襲った大地震の被害と、その直後の同市のありさまを新聞記事等で探る必要もあります。ちょうどこの頃、ブロツキーはカリフォルニアの裁判所で書記の手助けを借りながら自分史を記しています。現在残っている記録は本人が記したものの抄訳でありますので、ぜひ英語で書かれた原版の記録を入手する必要があります。

 また、1900年前後に中国に巡業に行ったカナダのサーカスは現存しているとは思えませんが、一度チェックする必要があろうかと思っています。

 中国においては、ブロツキー滞中時代、すなわち1909から1914年までの外国人滞在者に関するニュースをチェックする必要があると思いますが、この点については同国の関係者と協力して調査を進めていけたらと期待しています。中国に関連ある古い映像の情報についてもハッドンのような公開されるデータベースに情報が提供されるよう働きかける必要もあるでしょう。

 先に紹介した『中国時報』の記事によると、アメリカで一応の成功を収めた後、一度は故郷を訪ねようと豪華客船に乗りヨーロッパからオデッサまで戻ったブロツキーは、港に降り立ったところをロシアの兵隊に拘禁されそうになり、同行のアメリカ人知人の助けを借りてからくも救助されました。結局、この時には故郷には戻れなかったようです。その後、ロシアには政変が起こり、一時はユダヤ人に寛容な政府が生まれたように喧伝されました。

 実際にはソ連の新政府は多くの矛盾を抱えたまま、今日見るように民族問題は一つも解決されず、ユダヤ人が安心して土地に根付いてゆける世界は実現しませんでした。帝政ロシアを倒した革命政府はいち早く映画の底力に気づき、民心を一つに集める手段として大いにプロパガンダに利用し、その副産物として芸術性の高い数々の劇映画を産出しています。ソ連は、映画人はともかく、国を挙げて「映画」という新しいメディアを手厚く擁護したのでソ連映画は発展の一途を辿りました。その輝かしいソ連映画の滑り出しをブロツキーはどこで、どのように見ていたのでしょうか。

 鉄道省(鉄道院が改称した名称。その後、国鉄となり、現在はJRの各社として民営化された)は、日本紹介映画『BEAUTIFUL JAPAN』という題名をいたく気に入っていたようです。1934年(昭和5年)8月号の月刊写真誌『歴史寫眞』20)に記載された写真記事に、サクラ・フジヤマ・ゲイシャが美麗カラーで印刷された『ビューチフル・ジャパンのポスター』の写真が白黒ではありますが載っており、その写真にはキャプションとして「鉄道省観光局は外客誘致のためのポスターを作り、アメリカに7000枚、ヨーロッパに2000枚配った」とあります。ビューティフル・ジャパンとは、実は外客誘致のための鉄道院、鉄道省のキャンペーン名であり、この息の長いキャンペーンは、実に昭和の時代まで継続して行われていました。

 しかし続けて『歴史寫眞』を見てみると、皮肉にもこのポスターが外国に華々しく送り出された翌年には満州事変がおこり、その特集が組まれており、時代は第二次世界大戦に近づく軍靴の足音が段々と高まり、間もなく外客誘致どころではなくなろうとしていたことが判ります。ところで日本政府側は、編集に参入することを拒否されたブロツキーと彼の撮影した映画『BEAUTIFUL JAPAN』は同キャンペーンの汚点だとの判断したものか、この撮影に関する記録は同役所の資料には見つかっていません。そのことに対してブロツキーはさぞかし反論をしたかろうと思うのですが、そのためにも彼自身が書いた自分史にこの映像製作に関して現在分かっていることに付け加えて一行でも多く書き残していることを願いながら、その原稿入手に努めようと思っています。

 ともかく、鉄道院製作による『BEAUTIFUL JAPAN』のポスターは見つけたいと思っています。日本交通公社では各種ポスターを制作し、同社独自の事業のためにその都度外国に送付していたことを記録し、ポスターの写真も保管していますが、同社のポスターには「JAPAN」とあり、は鉄道院の発行のポスターと明らかに異なっています。


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掲載開始 2000.01.11.

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