校長先生


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a documentary



THE PRINCIPAL



ここはウズベキスタン(Uzbekistan)共和国、タシケント(Tashkent Oblast')、中部チルチク地区 (Sredno-Chirchiksky raion)、元集団農場(kolkhoz) ボルシェヴィーク(Boshevik)です。

遠くに見える家の灯火は、これから私のお話するロシア・カザフ語初中等学校の校長先生の家のものです。

校長先生の名は、ミハイル・パブロビッチ・ユン、朝鮮人です。

彼は、世界史に特筆される人物ではないにしても、周囲の人々、特に子供たちには大切な人です。

1997年以来の経済危機は非常に深刻で,人々は必死で家計を支えています。

ユン校長の奥さんと二人の娘さんは、極東沿海州へ出稼ぎに行きました。

中国の廉価製品を転売して、利鞘を稼いで家計を助けるためです。



ユン校長は一人暮らしを余儀なくされ、家事は全て彼の肩に懸っています。

私はユン校長の好意でお宅に泊りこみ、夜毎に彼の身の上話を記録し...

昼間は、彼の仕事場である学校や、村人の暮らしを記録に残しました。

ボルシェヴィークに住むのは老人ばかり、若者たちは都会に行きました。

ここには、子供がほとんどいません。生徒は大部分が近隣の村の子供です。

ロシア語学級の生徒は朝鮮人と一部のカザフ人の子供です。

朝鮮人は1937年、ロシア極東地方から中央アジアへ強制移住させられました。

ロシア極東地方に380あった朝鮮語で教える学校は、全て閉鎖されました。

翌38年には、移動が認められた朝鮮師範大学も朝鮮語教育を禁止されました。

それ以来、朝鮮人の子供はロシア語で教育を受けてきました。

この土地は今では、ウズベキスタン領ですが、元々カザフ人が暮らしてきました。



私は初めウズベク語学校で学び、2年後、ここでロシア語学級を1年から、やりなおしました。

それで、私は10年級を卒業したときには19歳になっていました。

卒業後、私はウクライナのリボフ(Libov)教育大の物理・数学科を受験しました。

学部長にウクライナ語は解るかと聞かれ、聞いたこともないと正直に答えました。

学部長は部屋に来た学生を勉強する気がないなら辞めろと叱り飛ばしました。

この若者は勉強がしたくて、遠く中央アジアからはるばるやってきたんだ。

学部長は今の会話がわかったか?と聞き、私は半分くらいはと答えました。

大丈夫だ、ここで勉強したまえと、学部長は、入学させてくれました。

こうして1963年に卒業するまで、リボフで勉強することになりました。

この村に戻り、この学校に就職した1年後、ソ連軍に徴兵されました。




新学期が始まり、今日は最初の職員会議の日です。

今年は、授業時間を45分から40分に縮め、余る時間を進学者への補習にあてます。

各クラスから、2-3人は、大学への進学希望者を出したいものです。

これはささやかな希望ですが、今の私たちには、成功だと言えましょう。

構内の清掃をする生徒のため各教室にモップ棒とバケツ各1個を支給します。

紛失した場合は担任の責任で購入してください。予備はありませんから。



朝鮮人が強制移住させられて来たころ、ここは葦の生い茂った河辺林でした。

我々の祖先は、その葦を引き抜き、家を建て、田畑を作り耕しました。

そして、戦争後は非常に豊かな集団農場になりました。

今は荒れ果てていますが、クラブの建物は、近隣では一番立派でした。

戦後の40年代後半、400世帯が暮らしていましたが、今は50世帯足らずです。

ここで暮らす老人たちは、集団農場や国営農場には所属していません。

自留地で赤唐辛子を栽培し、仲買人に売って、その金で暮らしています。

各自が好きなように暮らし、互いに干渉することは一切ありません。

学校が無くなれば地区の行政は、この村には全く関心を無くすでしょう。

カザフ人の村も70世帯と小さく、老人中心で若者は都市に流出しています。



隣の農場から綿花の収穫を生徒に手伝って欲しいと依頼がありました。

綿花の収穫は、収穫用の大型機械が老朽化し、手作業で行われています。

大型コンバインの工場はウクライナにあったのですが、経済の混乱で...

ウズベキスタンの農場では、農業機械の運用が困難になってしまったのです。

この女の子は、目標が6Kgのところ、2Kgしか収穫できませんでした。

ユン校長のお母さんも、近くに住んでいます。

母親の健康を気遣って、時間の余裕を見つけては、彼女のもとを訪ねます。



徴兵されて私は、カザフスタン駐留の宇宙軍に配属されました。

バイコヌールに隣接する宇宙センターで、宇宙船人工衛星を管制する部隊です。

私は有人宇宙船の遠隔監視のオペレーターでした。

当時は宇宙飛行士のガガーリンや、総技師長のコロリョフが健在でした。

ベリャーエフとレオーノフが搭乗した宇宙船では、故障が起こりました。

通常、地球に戻る宇宙船は、アフリカ上空で減速装置を作動させます。

次の周回軌道でも、遠隔操作は失敗でした。

そこでコロリョフは、ベリャエフに手動操縦での着地を命令しました。

ベリャーエフは、巧く宇宙船を操って着陸に成功しました。



老人たちはしばしば集まっては語りあい、若き日を偲んで唄います。


(日本の)作曲家、田中穂積は、今世紀の初めに自分の作曲した美しき天然が、ロシア極東、沿海地方の朝鮮人の心に深く染みわたり苦難と迫害の時代に、彼らと共に中央アジアとカザフスタンの荒野に強制移住させられ、一世紀後、郷愁という歌に姿を変えて,日本のはるか彼方で、朝鮮人たちの心を一つに結び付けて、祭りの日々に祝いの日々に歌い継がれていることを果たして想像できたでしょうか?


郷里を去りて、見知らぬ土地に身を置けば、故郷への想いが心に募り行く 心にあるは、親しき者、友への想いのみ


秋の満月、世界を照らし、月光は空より降り注ぐ野雁の高鳴く声に 翼の運ぶ郷里の便りを待つ



ある朝、2頭の子豚が病気になり、ユン校長は隣人に助けを求めました。

ユン校長は、全てのクラスの数学と物理の授業を自ら担当しています。

財政困難から地区の行政は、学校に対して少ししか予算を割きません。

ユン校長は事務員を置くことをあきらめ、秘書の仕事も自分でしています。

さらには、人事係や会計係の仕事までも一人で背負い込んでいます。

そこで校長は、専用の執務机につかず、応接用の机を使っています。

そこからは、全てに手が届きます。



あーあ、教師が足りないなあ。どこから教師を捜してこれるんだ??

教育には国家の予算がほんのわずかしか割かれていません。

校長の月給は240スム(米ドル換算12$)ですが、教師はもっと少ないのです。

これで1ヶ月暮らすのは、全く無理です。

教師たちは、生活のたしをつくるため、大都市を廻る行商をしています。

数週間の物売り稼業で得られる純益は、教師の給料の半年分になります。

これでは、教師の勤労意欲が失せても不思議はありません。

この学校には教師が23人いたのですが、新学期を控えて9人が辞職しました。

いろいろ工夫して7人を確保し、足りないのは、2人にまで漕ぎつけました。



親豚には住まいが確保されていますが、子豚には、新小屋が必要です。

ある日、ユン校長は、お隣の家の男の子の1歳の誕生日に招待されました。

若い両親は、老人と共に子供の人生初の大切な日を祝いに、戻ってきました。

朝鮮人の一生には、4つの大切な節目の日があります。

1歳の誕生日、結婚の日、還暦の日、そして葬式の日です。

結婚式と葬式の日は、何時とは言えないので、人生最大の祝日は還暦の日です。

1歳の誕生日のお祝いには子供の将来を占う象徴的な品々が並べられます。

もし子供が針と糸を選べば、優れた仕立て屋になることが期待されます。

米と豆に触れると、子供は病気がちとされ、健康に注意せねばなりません。

お札を掴めば、子供は金持ちになるとして、親類一同を喜ばせます。

この坊やは、鉛筆を掴んで、教養ある賢い人間となることを選びました。


ユン校長も赤唐辛子を栽培し、忙しい時間を縫って収穫物を手入れします。

一夏に1.5トンの赤唐辛子を収穫ですれば、翌年は、まあまあの暮らしができます。


ヴァレンティンは、2トン以上を収穫するでしょう。彼の菜園は広いから。

ヴァレンティン夫妻は若いので、老人たちは、時々パーティーを催します。

いかなる数もゼロで割ることはできません! 計算の意味が失われます。

このことはよく覚えておいてください。

設備が全く足りません。実験器具も試薬も与えられません。ゼロなのです。

校長として将来には、明るい展望を持てません。

先ず子供の数が非常に少ないのです。1学年が10名を超すことはありません。

今年、カザフ人の新入生は9人です。彼ら全てが11年生まで続くとは思えません。



ユン校長は、40Km離れた隣の農場での還暦のお祝いに招かれました。

還暦を迎えると、子供たちが宴席を設け、子供や孫一同から古風な挨拶を受けます。


お子様方の設えた還暦の宴席で、お子様方、ご親族方のご挨拶を、今受けられました。

これは、彼女の60年の素晴らしい人生の証でございます。



ユン校長は、最近タジキスタンから逃げてきた婦人を紹介してくれました。

踊りに興じる表情からは地獄から抜け出してきたひととは、信じられません。

彼女はここで結婚し、病気がちな夫を献身的に世話しています。


ある朝鮮人にタジク人が収穫したネギを全て寄越せと要求しました。

彼は断りました。 悪人と知ってたら、彼はすべてを差し出したことでしょう。

でも、判らなかった。

ある夜、タジク人は彼を襲い、手を家の壁に釘で打ちつけ、首を吊りました。

家には火を放ったので、彼は家とともに燃やされ、焼け死にました。

戦争が始まると、タジク人はこう宣言しました。

露助は、ロシアへ叩き出せ!

タタールはバシコルトスタンへ追い出そう!

朝鮮人は奴隷にして働かそう!!

1960年代にタジキスタンに移り住んだころ、そこは素晴らしい土地でした。

食料品は豊かで安価でした。家も安く手に入りました。

タジク人も良い人たちでした。なぜ仲間同士の殺し合いになったのでしょう?

アフガニスタンの連中まで加わって戦争を始めました。

本当に恐ろしいことが起こったのです。



全生徒150人の3分の1が朝鮮人です。残りはカザフ人の子供たちです。

カザフ人の村には、ガスが引かれています。学校は冬、非常に冷え込みます。

今新しい学校の設立は無理です。あなた方の子供は、この学校で学ぶのです。

若い父兄には、当局に対し学校にもガスを引くよう要求して欲しい。

我々朝鮮人には無理ですが、カザフ人は農場に所属し、要求もできる筈です。

自分の子供の心配をして欲しいです。校舎の廊下は、とても冷えこみます。



私はできれば辞職したい。教師の陣容が昨年並に優秀なら、今すぐ辞めたい。


いかなる数もゼロでは、割ることはできません!


先ず今年を生き抜くことです。そしたら、その先も見えてくることでしょう!



毎年、ユン校長は辞職を考えます。しかし、替わりの人はいないのです。

彼が去れば学校は閉鎖され、子供たちは教育を受けられなくなります。

教育無しでは、子供たちは、まさにゼロになってしまいます。

新学期になれば、ユン校長は、先生や生徒の前で、新学年の祝辞を述べます。

勉強の大切さを説き、みんなに努力するよう訴えます。

ユン校長は辞めはしないでしょう。


皆さん! 新学年の始まりをお祝い申し上げます。


新学期、生徒たちは勉強しようと教室に駆けつけることでしょう。

そして1年たてば、この坊やは2学年に進級です。

私の校長、ミハイル・パブロビッチ・ユン先生の骨折りと献身のお話は終りです。


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