東京シネマの創業者、岡田桑三について
週刊朝日1964年12月11日号の表紙を飾った岡田桑三 (当時、61歳)
OKADA Sozo on the cover of very popular Japanese
weekly journal "Shukan
Asahi", Dec. 11, 1964
参考:岡田桑三について 科学映像館
Short biography of OKADA Sozo written by OKADA Kazuo in Jan. 1990. Original
text was written for
accompanying booklet published with reissued
FRONT from HEIBONSHA Ltd., publishers.
南方熊楠は、古い神社の裏山に聳え立つ楠の巨木を眺めるとき、不思議な感情に駆られる、と記しているが、象徴化された事物と人間の精神世界の間には、何か判らぬ微妙なものが有る。筆者は父、岡田桑三(1903−1983)の、様々な先駆的な試みをしながら、一抹の満足と挫折を繰り返しつつ送った、矛盾と波乱に満ちた80年の生涯を想うとき、二つの〈梅を詠ず〉の詞を想い起こす。その一つは、12世紀宋代中国の愛国詩人、陸游の卜算子〈梅を詠ず〉で、未だ酷寒の冬に、他に先駆けて咲く梅の花に、自らの報われぬ境遇を託したものである。もう一方は、1960年代初め、毛沢東が、陸游の詩の境地を逆転させ、自らの卜算子〈梅を詠ず〉により、国際的に孤立した陣営で闘う同志たちを励まそうとしたものである。前者は愁の、後者は笑の境地を詠ったものであるが、いずれも優美な詩詞である。
父は、実に羨ましいほど多くの友人・知人に恵まれた。だが、親友中の親友でさえ、彼の全容は掴みきれなかった。それはまた、我が家族においても同じである。筆者自身は、父の晩年の二つの仕事、科学・記録映画の製作(東京シネマ新社)と、科学映像資料の収集・公開(エンサイクロペディア・シネマトグラフィカ)をおよそ15年間にわたり共同し、それらの仕事の批判的な継承者として現在に至っている。一緒にやった仕事については、一端の責任は自分にもあり、当事者として語ることが出来るが、しかし、なにぶん両親40歳の時の子供として、〈フロント〉が発行された1942年に生まれた筆者には、〈フロント〉以前と、以後に焦点を当てる本稿は、多くが子供時代から父に聞いてきた事柄と、成人してからの自己の見聞・見解を重ね合わせての、不充分な記述しかできない。しかし今後、父と、その周辺の仕事を研究されたり、分析されたりする方々にとって、何がしかのヒントになるものも、あるかと思い走り書きしたものである。
時にこうした記述が、あたかも史実のように受けとめられ、一人歩きするのであるが、これは、そうした性格のものではない。手許に関係資料を集め、正確を期しながら記述したものでないので、年代などに誤りもあるかと思う。また、父が大変お世話になった方々も含め、全て敬称を略させていただいた。これらのことも、予め併せてお断りし、お許しいただきたい。
第二次世界大戦時に出版された日本の対外宣伝雑誌〈フロント〉の復刻版が、平凡社から出版され、同誌に関わったグラフィック・デザイナー、多川精一の〈戦争のグラフィズム 回想の「FRONT」〉が出版されたことから、東方社を設立し、フロント発行の中心となった岡田桑三についても、触れられる機会が多くなった。考えてみれば父、岡田桑三の人生は、よくまあ、こんな色々な方面に首を突っ込んだと思える、多岐にわたったものだった。20年近く山内光という活動役者だったことと、25年余りにわたって、日本を代表する科学・記録映画の製作者として国際的に知られた他、舞台美術・写真・出版に少なからず関わり、博物館の設立にも手を染めた。とりわけ、前出の博物学者、南方熊楠の遺稿の出版には情熱を傾けた。
出自
父の母、よねは、日英混血児だった。よねの父となった英国人は、イングランド南部、サセックスのターナー・ローズという銀行家の息子であった。彼は、明治の初め(1870年代)、工部省が新橋−横浜間に鉄道を建設するに当たり、工費を工面するのに、我国が初めて外債を募ることになった際、父親の経営する英国オリエンタルバンクから、対日融資を取り仕切るため派遣され、来日したのである。このオリエンタルバンクは、19世紀末、南アフリカで起った典型的な帝国主義戦争、ボーア戦争にからんだパニックで倒産したという。 一方、よね母方の実家は、泉州堺出身の和泉屋という屋号の横浜の商家であった。歌舞伎に出て来る和泉屋九兵衛という、けちんぼ親父が、ご先祖様の一人なのだとか−。
英国人と10代で関係の出来た曾祖母せきは、よねを産んだ。せきとターナーとの関係は相当長期にわたるもので、店の番頭と結婚したことになっているが、よねの二人の妹、こせきと華子も遺された写真から見た容貌からは、本当の父親がターナーであろうことは、容易に想像できる。父親の英国帰還後、横浜に残ったよねは、生糸問屋であり、米相場にも噛んでいた和泉屋の跡取り娘として、我がまま放題に育てられ、後に番頭の美平と所帯を持ち、1903年6月15日に三男、桑三を産んだ。長男は、若くして結核で死に、また次兄は、産まれて間もなく死んでいるので、成人し得たのは桑三のみである。
さて、よねと英国人の曾祖父、あるいは彼女の英国における異母兄弟の間では、長い間文通が交わされていたというが、何故か彼女と、その三男である父は、折り合いが悪った。特に戦後は、いったん満州から引き揚げてきた父と同居しながらも、祖母が〈お前らの世話になど、誰がなるものか〉と、ただ一人千葉県御宿に移り住み、父に生活費を送らせるのみという、最悪ではないにしろ、最低の親子関係を続けた。そのため、惜しいことに筆者は、歴史的に重要な時代のわが家の歴史について、祖母から詳しいことを聴く機会を逸してしまった。 よねは、クリスチャンで、その交際範囲も広かった。父は、母親の関係で、少年期に色々な人々に巡り会っていたようである。例えば、後に新劇女優となった東山千栄子と、その姉、中江百合らは、初め、よねの友人であり、父とも晩年まで親しかった。また父と、中学生時代に若くして病没した父の長兄、それに幼い少女時代の羽仁説子姉妹が一緒に写っている写真を、筆者は見た記憶がある。
筆者には祖父というものの記憶が全く無い。筆者の両親は、揃って1903年6月生まれであるが、父方も、母方も揃って父親が、両親の成人前に死去しており、本稿を書いていても、祖父の名が思い出せず、家族からあきれられた。揃いも揃って大酒飲みであったことは、両親各々から聞いているから、確かなのであろう。父の子供時代には、祖父は天才的な相場師として横浜の商人仲間では、知られていたらしいが、よねの性格の強さに閉口して、親しい芸者のところに身を寄せてしまい、父は、別居している両親の住居を行ったり来たりしていたらしい。
美術家となることを夢みた父は、横浜の中学を卒業後、できるだけ早く母よねから独立しようと知恵を絞り、西欧に留学(1921年)を志した。ところが、本人の希望したフランス留学は、〈パリは、ふしだらな女たちのうようよいる、若いものには有害な、風紀の乱れたところだ〉としてよねに潰された。父に言わせると、百人一首を〈あれは男女の恋愛を扱ったものだからいけません〉と、禁じるほどよねは、頑なであり、厳しかったのだという。本人はまるで意識していなかったが、かくいう筆者も、今でこそ、通勤に使うことにより、一年間に3,000キロを自転車で走破している自転車好きであるが、父から尾てい骨が変形するという理由で、子供時代に、一切、自転車に触れさせて貰えず、30歳過ぎまで、乗れないという頑なな育てられ方をした。よねの頑なさは、当人がいくら拒否しようと、ごく自然に、父も受け継いでいたのである。
どこかに桑三もいるか? 鹿島丸乗客一行
在英の桑三の祖父は、よねに肩入れし、孫をイギリス留学に誘った。しかし、父の方は、〈黴の生えたようなロイヤル・アカデミーの画家になど、弟子入りするのはまっぴらだ〉と、蹴飛ばした。父のドイツ留学は、このような経緯からの第二の選択であった。父は、ベルリンでなかなか厳しい実技試験を課せられたのち、カイザー・ウィルヘルム芸術アカデミー美術工芸学校の舞台美術のアトリエに入学を許された。このベルリン留学にあたって、客船、鹿島丸による神戸からマルセーユへの1ヶ月半余りかかる渡欧の船中で、横浜正金銀行ロンドン支店に赴任途上の渋沢敬三と知り合った。そして渋沢に非常に気に入られ、彼の死(1963年)に至るまで、絶えず仕事上のアドバイスを渋沢に仰ぐ、きわめて緊密なつきあいを続けた。
渋沢は、少年時代から動植物・地学の様な自然科学にも、民族学的な人文科学にも並々ならぬ熱意を燃やし、祖父、栄一からそれらは、あくまで趣味として家督を継ぐよう諭された人物である。敬三は、渡欧以前からささやかなアチック・ミューゼアム・ソサエティーを創っていた。これが、のちのアチック・ミューゼアム=日本常民文化研究所となる。ベルリン留学からの帰国後、渋沢と、そのアチック・ミューゼアムの活動を通じ、父は後に〈フロント〉発行にかかわった林達夫、岡正雄、岩村忍、あるいは服部四郎をはじめ、実に多数の民族学分野の人々との人脈を作りあげたのである。
渋沢は後年、栄一と敬三という、あまりにも傑出した個性の間に埋もれてしまった父親、篤二が、撮りだめた写真を整理し、〈瞬間の累積〉という本にまとめている。その父親の影響もあってか、渋沢自身、映画や写真を非常に好きであった。昭和初期、非常に高額であったアマチュア用16ミリカメラ、コダック・シネスペシアルをいち早く所有し、太平洋戦争が差し迫り、アメリカからのアマチュア用反転映画フィルムが輸入停止になるまで、採訪と呼んでいた調査旅行にカメラを持参し、自ら撮影し、また後には周辺の人々、とくに宮本馨太郎に提供し撮らせていた。
また、現在は取り壊されて、第一勧業銀行の丸の内支店の現代的な建物に変わっているが、第一銀行本店の建物が新築されるときには、その建築過程を随時記録させた。その内容は後年、本店建築を担当した清水建設の後輩たちが見て、驚愕するほど建築史的に貴重なものであったという。父は、動く映像の持つ記録としての機能、考え方についても、多くを渋沢から啓発された。後年、日本科学映画協会を設立しようと思い立った父が、先ず会長に担ぎ上げようと考えたのは、渋沢であった。
さて、ベルリンでの父の身元引受人となったのは、森戸事件で東京帝大を休職、渡欧を余儀なくされていた森戸辰男夫妻だった。よねは、自分の通う教会の信者仲間の帝大の先生なら安心と考えた。しかし、中学生上級時代にクロポトキンの書を愛読し、アナーキズムにあこがれていた父はきっと、〈これはしめた〉と、思ったことだろう。この辺に、ベルリン滞在中、すぐにマルクス主義を受容した父の素地があったのである。ベルリンで父は、森戸家とつながりのある多くのドイツ人・日本人と、交流を持った。特に同じ舞台美術を志していた村山知義とは親しくなった。のちに彼を通じ、例えば蔵原惟人、岩崎昶のような192・30年代の左翼文化人を共通の友人とするようになった。森戸家で出会ったドイツ人の中に、リープクネヒトという人物もいた。彼は、1919年にローザ・ルクセンブルクとともに右翼暴力団に暗殺されたスパルタクス・ブントやドイツ共産党の創立者の一人、カール・リープクネヒトの親族にあたる人だった。 多分、カールの兄か、叔父ではなかったのだろうか?
出会いのきっかけが、どのようなものか、さだかでないが、カツオのうま味物質がイノシン酸であることを発見した小玉慎太郎の弟で、当時ライプチヒの大化学者オストワルトのもとに留学していた小玉美雄とも大変親しくなった。小玉は、後に味の素の中国工場の技師長を務めたり、母校、東京理科大学の本部長を務めたほか、晩年、港区伊皿子の自宅の傍らに研究室を構え、一流大企業の研究所相手の応用技術開発から、バタ屋の親分たちに、産業廃棄物からの貴金属回収技術のアドバイスまでする、異色の応用化学者であった。父にとっても、小玉は永年にわたる科学・産業関係の大切な知恵袋であった。
多川の回想記には、〈フロント〉の独文が非常に優れたものだと在日ドイツ人から感心されたのに対し、父から独訳したのは、岡上という日本人だと聞いた、と記されている。筆者には、このことは初耳で、大変興味を覚えた。というのは、父のベルリン留学中大きな影響を与えた人物に、本名を岡上守道といい、ペンネームをクロポトキンとレーニンにあやかった黒田禮治という朝日新聞のベルリン特派員がいた、とは常々聞かされていたからである。黒田は、在欧の日本人左翼の中心的な人物として、コミンテルンがアジア諸国に共産党を結成させるた2年初めにモスクワで開催した極東民族大会にもベルリンから参加したという。父は、ソ連とそのコミュニズムのことが聞きたくて、何度も黒田のところへ押しかけた。もっとも、あからさまに聞いても、話してはもらえないだろうと知恵を絞って、モスクワ芸術座の近況が聞きたいという名目で、コンタクトを続けたという。黒田=岡上は、非常に優れたジャーナリストではあったが
、ドイツ女性を夫人にしていた彼は、後年のナチス勃興期に、国家社会主義支持に乗り換えてしまったということである。
ベルリン留学中、父は志望を徐々に舞台美術から映画演出に変えて行った。きっかけは、いくつかの映画から受けた強烈な刺激である。ベルリンへ向かう途中のパリでは、アメリカのロバート・フラハティーが撮影したエスキモーについての記録映画〈ナヌーク(極北の怪異)〉(1922年)が、劇映画とは異なる世界の可能性を強く印象づけた。そしてL・トルストイ原作による初期のソ連劇映画〈ポリクーシカ〉。これは、1919年にA・サーニンが監督した作品で、モスクワ芸術座の名優イワン・モスクビンが、地主の金を盗まれたことを責めたてられ、自殺に追い込まれる哀れな農奴の主人公、ポリクーシカを演じている。それから、第4回コミンテルン大会(1922年11月)で演説するレーニンを写したニュース映画。レーニンとソビエト政権は、映画の持つ社会的影響力に注目した最初の国家権力であった。初期のソ連記録映画におけるレーニンは、後にエイゼンシュテインと仕事を共同することになるエドアルド・ティッセらソ連の
記録映画カメラマンたちにとっては、最高の被写体であった。そこにただ政治指導者がいる、演説している、といった事実を時事的に記録するだけでなく、扇動的な演説の内容を示唆するような、ふさわしい構図や背景などが熱心に追求されていた。革命の芸術は、同時に芸術の革命をも志していたのである。父が、いずれは記録映画の製作をと考えたきっかけは、ここらに始まる。
三年間のベルリン留学から帰国した父は、はっきりと将来の職業に映画を選択した。しかし、ドイツやソ連の優秀な監督たちの多くが、自らも演技経験を持っていることを参考に、映画監督になる前に、しっかりした演技訓練を自ら習得しておくべきと考え、まず映画俳優から身をおこす決意を固めた。1925年、日活作品〈陸の人魚〉でデビューし、芸名は山内光となった。このように、初めから活動役者−映画俳優という職業を、人生の中の一つのステップとして捉え、舞台美術への興味を、無くなすようなことはなかった。同じ年、村山知義、河原崎長十郎と共同して心座の舞台装置も担当している。若い時代の父にとって、記録映画、報道写真、出版と色々な映像と関連する分野への関心・興味は尽きることがなかった。
ソ連映画に並々ならない関心を示していた父は、1929年に、遂にソ連に行って実際に思う存分、先進的映画に触れるチャンスを掴んだ。友人に左翼知識人が多く、自らも左翼に同調的であることを隠さなかった父ではあるが、名目を、目前に迫った映画のトーキー化に対応するため、ドイツへトーキー映画事情の研究に行くこととした。ついては、時間的にも有利なシベリア鉄道により、モスクワ経由で行くというプランである。ついでにソ連の独自のトーキー技術も見ておこう。場合によっては、ソ連の映画用生フィルムの輸入も検討できるかも知れないと、松竹映画の首脳陣を説得して、城戸四郎蒲田撮影所長から旅費を出してもらった。本来の目的は、巧みにカムフラージュしているが、言っていることには全く嘘が無い。そして、実行にあたっては、表の目的も裏の目的も、全てにわたって努力を惜しまない。父の世渡りの典型的なパターンが、ここにはっきり現れている。

ヨーロッパに向かう少し前、桑三と田鶴子は川端康成らと伊香保温泉に旅行した。中央の康成を挟んで立つ後列のペアルックが彼ら。右端は宇野千代、田鶴子の左が三宅艶子その左が阿部金剛と、関係者が揃っている。
この旅行はまた、画家、阿部金剛から離婚し、父の許に嫁ぐことになった鍋島田鶴子との新婚旅行も兼ねていた。父が、田鶴子とその連れ子である次男、健美を引き取って結婚することにより、阿部は女流作家、三宅艶子と正式に結婚できることになった。そこには、さらに筆者の兄、健美の本当の父親の特定という問題があり、その本来の責任者である作家、原奎四郎は、父と母が結婚をすることで、まんまと逃げ通すことになった。映画スタア・画家・小説家二人、それに傍流とはいえ、鍋島家の〈お姫様〉を巻き込んだ、今ならば女性週刊誌・テレビ芸能番組が競って飛びつきそうな男女多角関係の大スキャンダルだった。
しかし、家族のものにとってさえも、なかなか微妙なもので、そもそも、父と人妻であった母が、どうして親しくなったのか、−その出会いについては、結果として十数年後、自分が生まれることになった、筆者にとっては、きわめて重要なポイントなのだが−、ついに両親に、直接聞いてみる機会を逸してしまった。こうした人生上のもやもやを振り切る意味も有ったソ連・ドイツ訪問旅行は、父の人生にとっては、将来の仕事の上でも、大きな影響を与える事件であった。
当時、発足したばかりの、映画を通じての左翼文化運動〈プロキノ〉に、父は積極的に加わっていた。スタア格の活動役者の給料は非常に良く、当然の事ながら、経済的には豊かでない階層の運動では、活動資金調達の上でも、彼は金づるであった。世間に良く知られた活動役者としても、また容貌の点でも、目立つ存在としての自分を逆手に取って、公然と活動した。逮捕された共産党指導者の救援活動、佐野・鍋山死刑重刑反対運動などにおいても、松竹蒲田撮影所のほとんどの関係者の署名を集めてしまった。先ず最初に、城戸ら、撮影所首脳陣にヒューマニズムの点からも極刑・無期刑には反対すべき、と口説いて署名を貰い、その後下へ、下へと署名簿を回して行ったら、皆が〈これなら、社内でにらまれることも無かろう〉と、署名に応じたそうである。
しかし、プロキノ・メンバーへの当局の弾圧は、概して厳しかった。積極的な活動分子は、すぐに党員に採用しないと活動が維持できなかった、当時の前衛政党の底の浅さ、奥行きの無さから来る性急さも、大きく災いしていた。治安維持法改悪に反対し、1929年3月、右翼暴力団員に刺殺された労働農民党代議士、山本宣治の東京での葬儀は、本郷のYMCA記念館で行なわれた。他のプロキノのメンバーは、弾圧が厳しく表面に出られないということで、父は、自ら葬儀の撮影を担当した。カメラは、洋画輸入商社、東和商事を設立して間もない友人、川喜多長政の所蔵する超小型35ミリ映画カメラ、キナモを借用した。路上では、松竹の腕章をつけた上、ハイヤーを雇って葬列につけて走らせながら堂々と撮影した。撮影済みのネガは、一挙に奪われることがないよう、次々と助手に離れた所に運ばせ分散した。また、俯瞰の画を撮ろうと、記念館の二階に上がって、監視する特高と一緒に並び、〈ご苦労さん!お互い今日は、忙しくて叶わんねえ〉などと、如才なく軽口を叩きながら、撮影を済ませてしまった。ソ連訪問にあたっては、モスクワ、ゴリキー通り(現在は革命以前の呼び名 トベリ通りに戻った)にある革命博物館コミンテルン部に、このフィルムを届ける目的もあった。
モスクワ滞在は、BOKC(全ソ対外文化交流協会)によってアレンジされ、ベルリン往復を挟んだ数週間に、永年夢見ていたソ連の先端的で、若々しい映画や演劇にたっぷり触れることができ、実に幸せな時を過ごした。〈戦艦ポチョムキン〉を監督したエイゼンシュテイン、彼のカメラマンであるティッセ、それに〈母〉を監督したプドフキンや、先鋭的な演劇家メイエルホリドなどと親しくなった。エイゼンシュテインの〈古きものと新しきもの(全線)〉については、初号試写に招かれ、エイゼンシュテイン、プドフキンに同席して観た。試写後のプドフキンの自宅で行なわれた内輪のディスカッションにも招かれた。
後日ティッセは、エイゼンシュテイン、アレクサンドロフの3人での欧米旅行への出発直前であったにもかかわらず、フランスのアンドレ・デブリー社に特注して作らせた自分のトロピカル仕様のパルボ・カメラや撮影レンズを、梱包してあった機材をわざわざ開梱して父に見せ、どのカットを、どのレンズで、いかなる狙いで撮ったのか、詳しく解説した。〈全線〉は、戦前の日本で公開の許された数少ないソ連映画であった。〈戦艦ポチョムキン〉や〈十月〉の様な暴力的な権力奪取の映画は禁止されたが、農村近代化・官僚主義打破などを訴えるものなら、日本の検閲も上映を許したのである。この映画は、ソ連共産党の政策の総路線を映像化することを志し、野心的に〈全線〉と名付けられていた。
しかし、映画が完成する頃には、スターリンの指導する政策は既に変化して、映画の内容も総路線の映像では無くなってしまい、題名も改題を余儀なくされた。手のひらを変えた様に、どんどん変わって行く政治と、政治をイメージ化し、固定化しようとした芸術との間に起こる齟齬、後年、〈フロント〉発行を巡って起こった悲劇と似たような事が、実はソ連では、早くも起こっていたのである。だが、数年後訪れる、社会主義変質の兆しが、既にほの見えていたとしても、十月社会主義大革命の国家権力奪取と、反革命派と生死を賭けて闘った国内戦は、ソ連の当時の映画人にとっては、ついこの間の生々しい出来事であった。彼らは、ロケ現場へ赴くことをフロント(前線)へ行くと表現していた。後年の誌名〈フロント〉発想の根源は、ここにある。
一方、1920年代末のベルリンでは、共産党系の武装闘争組織ロート・フロント(赤色戦線闘士同盟)とナチスのSA(突撃隊)との間で激烈な街頭闘争が続いており、新婚の父母は、色々な政治プロパガンダの実際を見聞することになった。当時のドイツのニュース映画を見ると、制服というのが何も軍隊とか、官憲あるいは、ナチスのような右派陣営の専売特許ではなかったことが判る。機関銃などで武装した右翼ほどではないが、ロート・フロントの方も、隊員は制服で身を固め、短い鉄棒などで武装し、軍楽隊の様な楽隊がついて、堂々とデモ行進していた。後年父は、初期のナチスが、〈ずいぶん共産党側の宣伝・扇動のやり方を参考にしたり、取り入れたりしているな〉と思ったと、当時の印象を語っている。また、この滞在中に父は、ドイツ工作者連盟の映画・写真国際展を知った。
ドイツからの帰国後、父は村山知義らと共に国際光画協会を作り、写真・映画・印刷に関する新たな運動を始めた。その展覧会を通じて、生涯の友となった写真家、木村伊兵衛と出会った。1931年には、ドイツ旅行中知った映画・写真国際展の一部を日本に招来し、東京朝日新聞後援のもとに〈ドイツ国際移動写真展〉をプロデュースし、大きな反響を写真界に与えた。〈木村の意識を決定的に変えただけでも、あの展覧会は、自分にとってやっただけの価値があったと言える〉と、晩年の父は述懐していた。
やがて1932年に高級写真雑誌〈光画〉が発刊されると、父はこの雑誌を通じて、新しい友人・知人を次々殖やして行った。それら交友の中核となったのが、写真評論を行なっていた伊奈信男であり、グラフィックデザイナーの原弘であり、やがて彼らの実践の場は、ドイツのフォトジャーナリズムに触れて帰国した名取洋之助を中心とした日本工房(1933年)設立となる。しかし、一年足らずで名取とは別れて中央工房、あるいは三浦直介を会長とする国際報道写真協会(いづれも1934年)が設立されることになった。日本工房から中央工房に移行するに当たって、名取の奥さん、エルナ・メクレンブルクが、父や伊奈を非効率と、追い出したように言われているが、もともと、洋之助がエルナをドイツから呼び寄せようとした時、渋る名取家を説得する役目を果たしたのは、父であったと聞いている。
名取と、他の面々の分岐は、のちのちライバル意識を燃やすものであったにしろ、激しい対立といったものでは無かった。また、彼らの中で、本当に写真で食べて行かねばならなかったのは、木村だけであった。伊奈は情報局の役人であったし、原は東京府立工芸学校の教諭、三浦は美術品複製を生業としていた。三浦、木村らは、そのころからカラー写真の技術を熱心に研究し、父も強い好奇心を持って、それに加わっていた。中央工房と平行して始まった国際報道写真協会は、日本の報道写真を海外に出すことと同時に、海外の優秀な写真の招来、交流することを目指していた。
国際情勢は、次第に悪化していたが、1936年に発刊のグラフ雑誌〈ライフ〉に代表されるアメリカのフォト・ジャーナリズムとの交流も出来つつあった。〈フロント〉というと、ソ連・ドイツの影響に先ず目が行くのは当然であるが、このことも忘れてならないのではなかろうか?
一方で父は、30年代も松竹蒲田撮影所の活動役者であることを続けていた。およそ20年近くも続けたことを父は、我ながら腹立たしく思っていた。筆者は、1961年から5年間、モスクワの全ソ国立映画大学に留学し、将来の課題として科学映画の製作に進むことを考慮しながらも、エイゼンシュテインの僚友であり、レンフィルムのコジンツェフと共に、ソ連映画界を通じて最もリベラルであることが知られたモスフィルムの映画監督、ミハイル・ロンムを主任教授とする劇映画演出のコースに在籍していた。お互いに、しっかり検閲されていることを意識しあいながら、筆者と父は、およそ10日に1本位の割で文通し、劇映画についても、沢山の意見を交わし合った。
ところが父は、自分の2・30年代の活動役者としての仕事には、ほとんど触れなかった。わずかに、日活京都時代に一時同居していた岡田時彦のことや、筆者留学当時また、現在もモスクワ在住の岡田嘉子のことなどについて触れることがあったくらいであった。因に、父と岡田嘉子とは、中学生時代から交友があった。実に筆者は、父の存命中、山内光の出演作品を1本も見ていない。別に禁じられている訳ではないが、本人に黙って見ては悪い様な雰囲気が漂っており、また、断わって見る機会を作るのも、はばかられた。1984年夏、国立近代美術館フィルムセンターが催した前年度物故映画人回顧シリーズで、島津保次郎監督、田中絹代共演の初期のトーキー作品〈お小夜恋姿〉が上映され、遺族と言うことで招待され、初めて父を活動役者として画面で見たとき、当人が語るのを好まなかった理由を、筆者なりに想像することが出来た。父は、自分をひどい大根役者であると思い、また、自分自身の心情に余りにも遠い出演作品自体にも満足することが出来なかったのではないのだろうか?
けれども、松竹の監督たち、例えば島津保次郎、五所平之助や吉村公三郎とは、結構馬が合い、仲が良かった。しかし、小津安二郎と映画論をたたかわしたとき、〈あんたの映画なんか、押し入れの中に入って、自分一人で、よがって見てりゃあいんだ、とやったら、小津の顔色が一瞬にして変わってしまい、その後、ずっと小津と仕事をすることは、無くなってしまった。ずいぶんたってから、仲直りの意味も込めて、小津が仕事に誘ってくれたのに、今度は自分の都合がつかず、惜しいことになった〉と、語ってくれたことがある。しかし、多分収入と自由に出来る時間などのバランスを考えると、たとえ、不満足あるいは、嫌悪感を感じることはあっても、俳優稼業をやめるのは、なかなかの決断を要したに違いない。左翼非合法活動をしている周辺の友人・知人を支援するためにも、金はいくら有っても足りなかった。
それだけではなく、自分と家族のために金銭を蓄えたり、将来を考えて貯蓄するといった、金銭に対する執着心がほとんど無かった。元来、常人よりも金を思いきり良く使う人間だった。本人は全く贅沢とは思っていないようだったが、合理的で細工や仕上げのいいものや、内外を問わず良書を見つければ、財布にいくらあるかを考えるよりも、まず先に買う決心をしてしまうのだった。美食家で、安くて旨いものがあると知れば、遠路遥々出かけて行くことも厭わなかった。衣服についても、いわゆるダンディーであった。さらに顔の手入れなどは、鏡台の前に座っている時間が、母より長い位だった。かといって、金が無いときにはどんなひどい衣服でも平気だったし、粗食も旨そうに平らげた。わが家にお金が無いというのは、晩年に至っても変わりがなかった。
父は常々〈共産主義の理想は、金銭などという小汚いないものが消滅した世の中なのだ〉と力説した。そこでよく筆者は混返えした。〈そうだね。確かにわが家では、既に共産主義は実現している!〉。 さて、1930年代の後半、国家権力の左翼追求は厳しさを更に増して行った。父の周りの友人・知人の多くは、酷い弾圧に会い、次々に転向を余儀なくさせられた。いち早く転向した作家、林房雄から銀座の飲み屋で、〈お前と蔵原は、何時までたってもボルなんだな〉と絡まれ、〈何だ、林の無作法め!〉とやりかえし、あやうく殴り会いの喧嘩になりかけたこともあったと、父は語ったことがある。共産党中央機関紙〈赤旗〉は、所持が判明しただけで検挙され、処罰の対象となる時代であった。その非合法時代、それほど長くはなかったが、活版刷りの〈赤旗〉が発行されていた時期には、党員でもない父のもとにも、配布網を通じて定期的に届けられていたという。官憲が検挙者に拷問を加えるのは、必ずしも検挙者が憎いからではなく、関係者・支持者をあぶり出し、次々と潰して行こうと意図してのことである。
しかし、父は最後まで、検挙という目に会わなかった。〈これだけは、捕まった友人たちが、裏切らなかったせいで、有難いことだった〉と、母親がしみじみと述懐するのを筆者は、何度か聞かされている。ただ一回、父の不在中に、私服の特高刑事がガサ入れに来たことがあったという。母は、〈貴方が本物の警察官かどうか、判らないから〉といって、近くの派出所の巡査を呼んだ。自分のなわばりを荒しに来たと、不満気な巡査の視線の中で、家中捜しまわった特高は、何も大して出てこないので、〈畜生!共産党っていうけど、随分いい暮らしをしてやがるんだなあ〉と、精一杯の捨てぜりふを投げつけ、引き揚げて行ったという。
FRONT
1930年代後半、日本共産党が実質的に壊滅させられても、日本の国家としてのソ連との付き合いは続いていた。しかも仮想敵国としてのソ連の研究は、一部の軍人たちにとっては、きわめて重要な課題であった。1930年代後半に大日本帝国陸軍参謀本部でドイツ、ソ連を担当していた中堅将校の一部は、非常に冷静かつ合理的な眼で世界情勢を見ていた。彼らの内には、狂信的な国粋主義や右翼愛国主義を心底から軽蔑している者も少なくなかった。彼我の状況の的確な把握無しには、勝利など有り得ないのであるから、それは当然すぎる程、当然であったろう。いかに自分の犠牲は少なくと考えたら、年がら年中、戦争などするものでないことは明かである。数少ないソ連から流入してくる対外宣伝出版物に熱心な眼を注いでいたグループの一部には、スペシアリストとしての、こうした軍人たちがいたのである。後年、〈フロント〉発行に当たって父と意気投合し、尽力してくれた参謀本部の情報将校、矢部忠太中佐は、その様な軍人の代表的な人物である。
ところで、こうした軍人たちが意見を闘わせたり、その意見を取り入れたり出来そうな相手は、外部では極めて限られていた。熱烈にソ連の方を向いていた左翼の本体そのものとは、これは手を組める訳もなかったし、それに治安警察が、すっかり叩き潰してしまった後であった。その中で、実際にドイツ・ソ連を見て来ており、しかも、その成果を写真・出版の中で展開することを熱心に模索する父は、極めて目立つ存在で、魅力的であったに違いない。彼らが熱心に見ていたソ連の対外宣伝雑誌〈ソ連建設〉は、皮肉なことであるが、国外での博覧会展示と並んで、ソ連の1920・30年代の先端的な芸術運動が、次第にスターリン主義の無味乾燥な官僚主義的〈社会主義リアリズム〉に追い詰められ、最終的な圧殺を目前にして、最期の活路を求めた場であった。国威発揚上に利用はされても、国内のソ連人民に奉仕する場は、もはや彼らには与えられていなかったのである。
30年代後半のソ連の実態と、それらの出版物や展示物との乖離は、今でこそ明かであるが、当時はさだかでなかった。しかし、つぎつぎと指導者の一部が失脚したり、裁判にかけられたりする事から、ソ連内部で権力抗争が続いているのは、想像に難くなかった。その様な事態は、決して独裁者、スターリンの政治的な強さを示すものではなかった。参謀本部の一部のソ連専門家たちは、そうした実態も把握しつつ、戦略的にはソ連のイメージアップに成功している対外宣伝出版物を評価し、同様に戦略的に日本が優位に立てるような、対ソ宣伝出版物の必要性を痛感したのだった。
多分、1939年のノモンハン事件のような無謀な挑発と、ソ連からの痛烈なしっぺ返しは、その必要性を痛感することに、拍車をかけた事だろう。対ソ宣伝物は、それがソ連に持ち込まれた場合、抵抗感のない、受け入れ易い表現上のスタイルが必要であった。当然、ソ連国民が日常接している文体やデザインを考慮し、また彼らの愛国心を逆なでする様な、反共ものであってもならなかった。
〈フロント〉は、確かに対ソ宣伝を考慮して始まった対外宣伝出版物であったが、本来は文化宣伝を意図した、決して戦争宣伝のための出版物ではなかった。発行自体は、太平洋戦争が始まってからになってしまったが、理想的には戦争をしないで、敵に対して優位に立とうという戦略的な思想から始まったものであった。しかし不幸は、〈フロント〉が陽の目を見たころには、参謀本部の中の本来の支援者たちは、中枢を外され、無謀な戦争に駆り立てる非合理的な狂信家の巣と成ってしまったことだった。しかも当面の戦争の相手は、ソ連ではなく、アメリカとなってしまったのだった。
父が〈フロント〉発行を組織してから、東方社を去ることを決意するまでには、それほど永くは掛からなかった。参謀本部の内部から〈フロント〉を共同して推進した軍人たちが参謀本部を追われるとまもなく、父は、残った軍人たちと東方社の運営方針を巡って、激しく衝突することとなった。父の口癖に、〈損得ずくで喧嘩は、出来ねえや〉というのがあったが、辛辣な口調では、父に負けずとも劣らない岩村忍と組んで参謀本部に乗り込み、強硬に持論を展開した。その結果、友人たちが〈東京にいては、とても危ない〉とまで心配するような状況になった。
一方、東方社の組織は肥大し、ごく親しい友人たちで、ただ一人専業の木村を支えていれば良い、中央工房の様な訳には行かなかった。多分、理屈では、父の方針に対抗できる人物は、いなかっただろう。しかし時局を鑑み、保身を考えたら、父に同調出来る無謀にして勇気ある人間は、ごく小数であったに違いない。父は孤立した。多分、大多数の人間は、〈岡田が東京にいては、東方社が危ない〉と考えたのではないだろうか。性格的に見て、孤立すること自体は、苦痛で無かったろうが、思った瞬間、それが舌の先に出てくるような性格の父には、裏へまわって中傷されるような状況は、とりわけ閉口するものであった。激務と心労から、以前から始まっていた糖尿病が悪化した。
その状況を知ってかどうか、満州映画協会理事長、甘粕正彦から人を通じて、〈この際資材の豊富な満州へ来て、天然色フィルムの開発を組織してくれないか〉という誘いがあった。〈大杉栄殺しの甘粕か〉と、最初は気乗りがしなかったが、永年、並々ならない関心を持っていた天然色フィルムの開発にたずさわれるという魅力の方が勝った。それにドゥーリットルのB-26機による東京初空襲を間近に目撃し、〈いずれ東京は、ゲルニカのようなひどい空爆に曝されるに違いない、満州の方が安全だろうと思った〉ということで、父は、母とまだ幼い筆者を伴い、3人で1944年の初めに、満州国の首都、新京(現在の長春)に赴いた。この甘い判断の満州行の結果は悲惨であった。空襲にこそ会わなかったが、3人無事で帰れただけが幸運といったものであった。まかり間違えば、筆者も両親と生き別れ、残留孤児として呻吟しなければならなかったかも知れなかった。
当初は、天然色フィルム開発に必要な資材の確保のために、満州と東京の間を往復し、周りの人々を驚嘆させるような腕を発揮したようだが、余りにも時間が無さすぎた。1945年8月ソ連が侵攻すると、かいらい国家、満州国は自ら崩壊した。ソ連軍が、先ず満州の占領者となったが、その軍規は目にあまるものがあった。特にシベリアの収容所から、囚人服を軍服に着替え直行して来た元刑事犯たちによる初期の軍隊は、良く知られる住民財産の略奪や、婦女暴行などを頻発させた。そして、驚いたことに中国人と日本人とが揉めていると、理由など調べずに、何故か日本人の味方をし、中国人からも顰蹙を買った。
長春(新京)時代の桑三と一男
事態が若干でも落ち着いたのは、本当に独ソ戦を戦った部隊が転送されて来てからであった。片言とはいえ、ロシア語のいくらかを話す父は、4歳だった筆者を抱きかかえては、満映住宅の戸口で、繰り返し襲来するソ連兵を笑顔で迎え、薬用アルコールの水割りで、彼らを盛り殺しては、撃退した。ソ連兵の警戒心を解く上で、異国で聞く片言のロシア語の単語と筆者の〈かわいかった?〉笑顔は、有効な手段であった。我が家でも、食器や石鹸、万年筆や腕時計の被害は免れ得なかったが、母が金が無くなってしまい、困っているというと、中には金を置いて行ってくれるソ連兵もいて、〈ソ連兵から逆にお金を取ったのは、岡田さんの所だけだ〉と、近所中の話題になったという。
長春はしばらくすると、今度は国共内戦に巻き込まれた。略奪が当然だった占領当初のソ連軍と、八路軍改め、中国東北人民解放軍の規律の良さは正反対だった。兵士たちは、〈為人民服務〉の胸章を着け、〈三大規律・八項注意の歌〉を高らかに歌い、日本人に対しても自国民と同様に公正に接した。しかし、国民党軍の反攻もあって、長春の支配者は何回も目まぐるしく変わった。ある時、満映住宅周辺が市街戦のまっただ中になった。その前後の状況は全く記憶に無いが、その晩の事は、刻み込まれたようにはっきりと、幼時の記憶に残っている。
一家3人は、床に寝て、吹き荒れる嵐のような銃声の中で、まんじりともしなかった。二軒続きの隣家には、トクと呼ばれた雄犬いた。住宅の周りにちょっとでも異変があると、トクはいつもヒステリックに吠え立てた。また、幼い筆者に焼き餅を妬いては、ウッと短く吠えて、筆者を脅かしていた。筆者は産まれた瞬間から、傍らに犬がいた、犬好きに刷り込まれた幼児で、めげることがなかったが、しょっちゅう、トクの歯が頬や鼻先に当たって、痛い目に合わされていた。その駄犬のトクも、うんとも、すんとも言わず黙りこくっていた。何故か切妻屋根の天井の、隅の三角形の部分の印象が、今も頭にこびりついている。この晩、我が寝室には、3発の銃弾が飛び込み、廊下との間のには、床上50センチの処に30センチほどの大穴が3つあいた。翌未明、八路軍の狙撃兵が戸を叩き、窓から射たせてくれと、丁重に許しを乞うた。父は、一緒に窓に近づこうとして、駄目だ、あぶないと兵士から制止された。まもなく国民党軍が撤収し、その朝からの数日間、筆者の玩具は、住居周辺で拾い集めたおびただしい銃弾の空薬莢であった。机の引出し2つ分はあったと記憶している。
その激動する長春にあって、父は早くも、次なる仕事を夢みていた。一時同居していた江上波夫(現オリエント博物館館長)と綿密な構想を練り上げた。江上波夫にまつわる逸話も、枚挙をいとわないが、その一つに、ある時、雑居のような状態で江上と布団を共有していた人が、突然、赤痢で死んだそうである。危険を感じた江上は、父の手元にあったリバノール(アクリノール)の錠剤を、一晩の内に一瓶全部呑んで助かったという。父は、その野蛮極まりない予防法の方によっぽど、びっくりしたというのだ。外見小粒な江上の、エネルギッシュな後年の活躍を彷彿とさせるエピソードではあるが、そんな中で語り合い、練り上げた構想とは、糸魚川の山奥の翡翠を掘って、まさに一山当てて、それを資金に発掘をやろうというものであった。
今後は、天皇陵の発掘も可能になるだろうから、応神・仁徳稜を江上が発掘し、自分はその記録映画をつくろうということであった。しかし、その際も遺族の了解と言うのは、きっと必要だろうから、皇族の中で一番、考古学に理解の深い三笠宮を担ぎ出そうと決めていたというのである。翡翠掘りは、夢で終ってしまったが、後年、地図好きだった小学生低学年の筆者が、何故、自宅に糸魚川周辺の5万分の1地図が、何枚も転がっているのか不思議でならなかった意味が、この話を聴いたとき、納得行ったのであった。
また南方熊楠の著書を刊行しようということも、この頃考え始めた。これは乾元社から、〈南方熊楠全集12巻〉が刊行され、一応実現した。全資産を放棄し、着の身着のまま引き揚げた父が、満州から隠し持ち帰った唯一の禁制品は、木村伊兵衛とともに取材に訪れようとして、断わられた南方熊楠からの〈取材断わり状〉だった。満州引き揚げに当たって、父は九州帝大医学部教授で満州に赴任していた内科医、小野寺直助の助言を入れながら、最期に残った金を全部医薬品に変えた。
医薬品は幸い禁制品でなかったし、さまざまな伝染病の中をかいくぐっての帰国ともなれば、それは賢い対策であった。これらの薬品を入れた鞄は、大きい方が、途中の混乱で失われたものの、残ったものだけでも、随分同行者の命を救う事になった。モービル石油の社長を務めた杉村泰馬も、母親と共に引き揚げる途中、重病になっていたところを、父の持っていた薬に救われた一人である。父は小野寺に、つくづく感心されるほど、どんな時に、どんな薬品を、どう使えばいいか、短時間に学びとっていたのであった。小野寺は小野寺圧痛点の発見者である。
後年、父の設立した東京シネマの〈名誉臨床顧問〉として、福岡から学会や学士院の会合で上京したとき、父の事務所で必ず半日を過ごし、社員一同の親指の爪を子細に観察した後、色々な症状を言い当てて、びっくりさせるのを楽しみにしていた。ある時、筆者も学生時代、一時帰国した際、父の会社に遊びに行き、先生に捕まって、尻のあたりを何ヶ所か押され、〈昨日、ウィスキーをストレートで飲んだでしょう。必ず水割りにするように〉と、諭され驚いた思い出がある。
戦後、帰国直後の父が、果して何を定収入としていたのか、まだ幼かった筆者には良く判らなかった。しかし、しばしば母が、〈いったい、これからどうなるの? どうするつもりなの?〉と、こぼすのを、父がうんざりしたように、黙って聞いていたのを記憶している。とにかく、父は数年間、出版と関わった。その一つとして、アメリカの現在のDCコミックス社にあたる出版社から翻訳出版権を取り、岡正雄らとコミック雑誌〈スーパーマン〉を、13号まで刊行した。1940年代末、幼稚園児だった筆者は、今から40年も前に、既にスーパーマンとも、バットマンとも、お馴染みだった。
この雑誌の流通経路の確保などには、渋沢敬三の支援があったが、外部で熱烈に支持し、父を励ましてくれたのは、日本のスーパーマン、鞍馬天狗の生みの親、作家の大佛次郎であった。戦前の国際報道写真協会が、アメリカともコンタクトがあったと、先に触れたが、敗戦後の満州には、旧知のアメリカのフォト・ジャーナリストたちが何人もやって来た。彼らとの接触が〈スーパーマン〉発行へのヒントとなったのではないかと、筆者は想像している。
南方熊楠全集の方は、ミナカタ・ソサエティーを、これまた渋沢の支援のもとに組織し、その代表幹事として遺稿の整理に参加し、とにもかくにも乾元社から全集として発行させた。食糧事情も悪く、みんな周りの人間は、元気の無い時代だったが、父はエネルギッシュに働いた。父は、この南方の仕事のまとめを通じて、昭和天皇の生物学研究を皇居内の生物学御研究所で取材する機会を持った。この時、自分で全ての新規写真撮影も行ない、〈天皇と生物学採集〉という一書をものにしている。その強い印象は、父をすっかり天皇ファンにした。あいかわらず天皇制は、将来廃止されるべきと考えつつ、生物学者としての昭和天皇を、尊敬するようになったのである。そして、いずれかの機会に、天皇がライフワークとする、ヒドロゾアを中心とする腔腸動物の映像化をしようと心に決めた。
さらに渋沢に頼まれて、十和田湖畔に、カルデラの地学を中心とした自然科学博物館の設営を設立幹事長として陣頭指揮した。館主の杉本行雄は、ながらく渋沢の執事を務め、当時は、十和田観光電鉄の社長であった。彼が、〈費用は惜しみなく〉と言うと、渋沢はすかさず釘を刺した。〈気をつけろ杉本、危ないぞ。こいつは、浴衣を用意しろと言うと、ゴブラン織りを織り始めるような奴だ。いくらでも、なんて言って見ろ。何をしだすか、判ったもんじゃない〉。
そのころ父は、五所平之助と組んでの劇映画のプロデュースも企画していた。企画倒れに終わったが、小泉八雲の〈怪談〉、特に、〈鴛鴦〉をやろうというものであった。気の早い父は、湘南逗子の路上で、なかなか巧みなヤマガラの神社参りの芸を見せる、原伊佐男という、丹沢の麓に住む遊び人の猟師に依頼し、随分永いこと、オシドリのつがいを飼育させていた。原は、後年、平塚近辺の金持ち連中のために猟友会の世話役のような事をしていたが、引っ越しマニアの父が、引っ越すというと、必ず駆けつけて手伝ってくれる好人物であった。
東京シネマの設立から晩年に 父の人生の総仕上げともなった科学映画の仕事は、それらの後の満51歳になってのことである。父が短編映画のプロダクション、株式会社東京シネマを設立したのは、1954年。並々ならぬ意志を持って、ついに1920年代に強烈な印象を受けた非劇映画の製作を実現した。東京シネマは、初めからカラーフィルムによる短編映画製作会社として出発し、たちまち数多くの国際賞を獲得し、岡田桑三の名は、顕微鏡撮影による、ミクロものを主とした科学映画のプロデューサーとして世界的に知られるようになった。東方社を組織して以来、十数年ぶりに再び、企業の経営者となった訳である。戦後の経済復興が軌道に乗り始めた、まだテレビ放送の社会的な影響力が低かった、など色いろと理由は挙げられるが、世界的にみて1950年代末、60年代前半は、短編科学映画の最盛期であった。その中で強烈なインパクトを与える製作活動が出来たのは、やはり父は父なりに〈フロント〉の経験を総括し、それ以降の逆境ともいえる時代に溜りにたまったポテンシャルエネルギーを一気に爆発させたからであろう。
父は、三度目のモスクワ訪問を1958年に果たした。この年、国際科学映画協会の年次大会がモスクワで開催された。戦後初の外遊でもあった。〈ミクロの世界 結核菌を追って〉がヴェニス映画祭記録映画部門の最高賞を受賞するというので急遽イタリアへ渡り、続いでモスクワへ行き、そこでも受賞した。科学映画のパイオニアである、フランスのジャン・パンルヴェら、ヨーロッパの科学映画人は、初めて見る日本の科学映画のレベルの高さに目を見張り、強烈な印象を受けた。同地では、亡命中の岡田嘉子・滝口新太郎夫妻とも劇的な再会をした。嘉子には、筆者もモスクワ留学中、大変世話になったが、彼女は、父の中学生時代以来の友人であった。〈嘉子が、世間には弟だといっていた息子を産ませた、画家だった最初の夫を除いて、杉本良吉をはじめ、他の男は、みんな自分の友だちだった〉と、父は語っていた。
さらにこのモスクワ滞在中に、西独の国立科学映画研究所所長のゴットハルト・ヴォルフから、戦後まもなく、コンラート・ローレンツ、オットー・ハーン、スヴェン・ヘディンらのアイディアを結集して始めた科学映像資料の国際収集運動、〈エンサイクロペディア・シネマトグラフィカ=略称EC〉の構想を熱心に説明され、日本への導入を考えるようになった。そして、いろいろな働きかけと、試行錯誤を繰り返した末、12年後の1970年、EC日本アーカイブズが、平凡社内に置かれる下中記念財団(理事長、下中邦彦)の一部門(委員長、朝永振一郎・所長、岡田桑三)として発足することになった。
K.ローレンツ夫妻と 1978年 オーストリア、ウィーン近郊アルテンベルクで
1960年代中期までの十数年間、東京シネマは、カメラマン、小林米作やシナリオライター、吉見泰らを擁して、優れた企業スポンサード・フィルムをおよそ100作品、製作したが、やがて進行する内部矛盾から、製作活動の崩壊を招いた。企業の再建に苦闘する中で、ヒドロゾアの映画づくりは、なかなか実現しなかった。何回も、何回も、まるで賽の河原の石積みの様な努力が、父にとってはおよそ20年、筆者にとっては10年続いた。茅誠司・進藤次郎ら、多くの友人・知人の支援と、内田亨ら、全国の腔腸動物学者が参画して、生涯に於ける最後の映像大作〈マリンフラワーズ 腔腸動物の生活圏〉を沖縄国際海洋博覧会・松下電器産業グループのための三面マルチスクリーン作品として、筆者と共に完成したのは、ようやく1975年のことである。皇居内生物学御研究所の取材で、ヒドロゾアに興味を寄せてから、およそ25年が過ぎていた。昭和天皇は、悲惨な戦災を受けた沖縄への訪問を終生の課題とされながら、ついにそれを果たされなかった。海洋博への行幸も見送られた。吹上御所に16ミリ三面マルチスクリーンの映写設備を仮設して非公式の映写を行なったところ、入江相政侍従 長を通じて、映写室に、すぐにもう一度、繰り返して、ご覧に入れて欲しいと連絡があった。
マリンフラワーズ
晩年
1983年9月1日、サハリン沖で大韓航空機が、ソ連空軍機に撃墜された日、父は永眠した。1ヶ月余りの入院生活の末である。晩年、父の体には、ついに日本にもこういう症状が出るようになったのかと言われた、無数の群発性の動脈瘤があり、もし破裂すれば、救急車を呼ぶより、霊柩車を呼べという様な体であった。しかし、本人は、病とともに生き、そして老衰して死んで行った。父が、我々の麹町三番町の仕事場に最期にやってきたのは、7月14日の事だった。新しい作品のビデオコピーを鎌倉、山之内の自宅へ送ったところ、一緒に見ようと事務所に現れた。今から考えると、あまり上出来でなかった作品に、満足の意を表し、帰途には健美夫妻を誘って、麻布鳥居坂の国際文化会館で夕食を取り、鎌倉に帰宅した。その数日後、風邪を引き、肺炎を誘発することを恐れて、大事を取って入院した。
入院しても、近くの鰻屋から蒲焼きを取ってみようと言ったり、会社で新しく購入しようというビデオ取材機器のカタログを、自分の処へも持って来いと命じたり、それほどの衰弱は見せなかった。しかし、8月後半ともなると厳しい残暑に、幾分弱っているようであった。家族の者は、退院後の世話をどういう風にしていくのか、その心配ばかりしている日々であった。丁度同年の母も、自宅で伏せりがちの生活を始めて数ヵ月していたので、家族にとっては深刻な問題であった。病院は、特に死の前日にも、危篤という判断はしなかった。9月1日早朝、見回りの看護婦が眠るように息を引き取っているのに気づき、大急ぎで家族に連絡をとった。
筆者は、故人の意志を尊重して、直ちに遺体を東京医科歯科大学に献体し、葬儀は無宗教形式で行なうことにした。もともと父は、東京大学医学部の組織する献体団体、白菊会に入会していた。父が薦めたのかどうかは不明だが、無二の親友、木村伊兵衛も同様だった。ところが、没後、共通の旧友であった中島健蔵らが、反対して木村の遺体は献体されなかった。それは、遺族の意志の反映であったのかも知れないが、父はそれを、故人の意志を無視し余計なことをした、と不満であった。父は常々、〈医者に良すぎる医者無し〉と言い、晩年の科学映画という仕事柄も絡んで、医師、医学者との付き合いは豊富であった。永年、日本医師会長を務めた武見太郎は、銀座に小さな医院を持っていたが、父はそこの〈施療患者〉であった。武見は、患者の持って来る〈応分〉の謝礼を受け取っていたが、本人が自分は〈施療患者〉というように、多分、他の患者の一割程度の謝礼で、診療を受けていた。(要調べ)年、小野寺直助が、東京での講演の翌朝、博多に戻って、午前中、坂本繁二郎の油絵の展覧会を楽しんだのち、帰宅後まもなく大往生を遂げたのを、武見は父に、〈医者として本当 に羨ましい〉と、語っていたが、やがて武見自身、ガンを患って、〈闘病の中で患者の気持ちと言うものが初めて、本当に判るようになった〉と、何かに書くようになった。
武見に診てもらえなくなってから、父は次々と主治医を変えた。医師の話は、当初は実に忠実に守るのだが、納得が行かなくなると、浮気をした。そして、自分の献体先も、一緒に登録替えするのだった。東大白菊会から、慶大病院の献体組織へ、そして最期が、東京医科歯科大学の白菊会だった。母は、父に薦められ、一緒に東大白菊会に入会したが、有無を言わさず慶大に転籍させられ、また動くと父に言われて、遂に怒りだしてしまった。東京医科歯科大学の主治医は、極めて優秀な脈管外科の権威であり、率直な言葉で患者に接した。すっかり感服した父は、安心して献体する決意を固めたのであった。だが、彼は父の死と前後して起こった教授選挙のスキャンダルに巻き込まれ、学外へ去った。結果、父が死後も、群発性動脈瘤の研究のため、自分の肉体を貢献させたいという願いは、中に浮いた。これが、父の人生上の最後の挫折である。父の遺体は、医学部学生の一般的な解剖実習用に回された。筆者は、それで良かったのだと考えている。遺体を管理した医学部解剖学教室の主任教授は、奇しくも父が1962年に製作したバイオニクスに関する先駆的な映画〈パルスの世界〉の指
導学者の一人、萬年甫であった。
1920・30年代に形成された父の多くの友人・先輩たちとの関係は、曲折はあったものの、その多くは、死が互いを分かつまで続いた。父の仕事の多くは、時代の趨勢とはかけ離れ、一方的に先行したものが多く、経済性から言っても、成功の見通しの薄かったものが少なく無かった。それ故の挫折も、常につきまとっていた。しかし、父の実現するまで、しつこく同じ歌を歌い続ける執念深さと、ドンキホーテ的な先進性こそ、友人たちにとっては、何よりの魅力であった。友人たちは、宿命的な挫折からの父の立ち直りを絶えず支えてくれた。すってんてんになるほど金を徹底的につぎ込み挫折する。一見、全てが失われるようであるが、実は、その投資が全て潜在的に生きていて、次なる仕事で、見事に活かされた。
父は、〈失うべき鉄鎖も持たぬ〉と表現していたが、確かに卓越した在野の自由人だった。〈フロント〉の出版物、組織や人脈も、万華鏡のような父の一生の中にあっては、ある一瞬の、美しい輝きとでもいえようか?父は〈フロント〉の思い出について、筆者には良く話してくれたが、外部に対しては、ほとんど口を閉ざしていた。結果的に日本軍国主義の片棒を担いでしまったという自責の念は、非常に強かった。自分自身の生活態度はともかく、理念としてのマルクス主義を十代末より固く信じ、周りの友人知人が、次々転向を余儀なくされる中でも、日本共産党が実質的に壊滅させられるまで支持者として留まったというのに、その後、実にまずいことをやったという思いが、時代を超えて評価され得る、いい仕事を組織したという自負心と常に葛藤していた。
さらに、余り触れたくない理由が存在していた。もともと、東方社は父が松竹を退社するに当たっての退職金や、自分で三大財閥から掻き集めた金による、いわば岡田桑三個人商店であった。ところが、東方社を引き継いだ人々は、本来、父の私有財産であるもの、たとえば小石川区金富町47番地の土地も含めて、戦後の混乱期に全てを勝手に処分していた。父が、この土地を取り返せるかと、顧問弁護士に訊ねたところ、〈長期にわたる裁判費用に、ほとんど土地代金相当額がかかり、その上、そうなったら責任の免れ得ない貴方の友人2人は、縄付きだ。そういうことで、溜飲が下がるのなら、やってみましょう〉ということだった。父は、友人を大切にする人間であった。〈やめようや〉というのが父の決断であった。
東方社のことに触れだせば、結局このことに触れざるを得なくなると言う警戒心も、口を閉ざしていた大きな理由であった。筆者も、父のこの意志を尊重して、この高名なお2人の故人が、誰であるのかには触れたくない。それに、そのお2人の方も、父に対し、後ろめたいということで、父より、もっと傷ついていたのかも知れないのだ。彼らが、中央工房の中心を成していた友人たちよりも、疎遠になっていることを父は気にしていた。〈そんなに気にしなくったって、かまやしないのに−〉。
父のいい点は、無頓着で、余りめげたり、くよくよしなかったことだ。目前の難事をけろりと忘れて、先の事を夢見ていた。夢さえ見ていれば楽しかった。ああしたらいい。こうしてみたい。構想は次々と湧いてきた。もっとも、並みの人間だったら泡を噴いて、倒れてしまう様なことが、次から次へと頻々と起こっていたのだから、その点が鈍感だったのは、賢い自己防衛反応であったのかも知れない。
冒頭に挙げた〈梅を詠ず〉に戻ろう。果して挫折の少なくなかった岡田桑三の生涯は、陸游の詞のごとく、愁なるものであったろうか? それとも毛沢東の詞のごとく、笑なるものだっただろうか? 筆者は、それを笑と捉えている。酷寒の厳しい試練に耐えて咲く梅の花は、やがて春が訪れ、野山に花々が咲き満ちたとき、先駆けの役目を終えて、静かに沢山の小さな実をつけている−。岡田桑三の80年の生涯は、岡田家の家紋〈子持ち亀甲に加賀梅鉢〉の中心にある、香り高い梅の花にふさわしいものだった。
1942年、東京生まれ。1961年から66年までモスクワに留学し、1971年、全ソ国立映画大学劇映画監督科修士課程卒業。1966年、父の科学映画プロダクション、東京シネマに入社し、科学映画、テレビ番組の演出・製作を続ける。1970年、国際科学映像資料収集運動〈エンサイクロペディア・シネマトグラフィカ〉の下中記念財団日本アーカイブズ設立に参画。1982年より、東京シネマ新社代表取締役、1984年より、EC日本アーカイブズ所長を父より引き継ぐ。作品に科学映画、〈人間の心と社会〉、〈マリンフラワーズ 腔腸動物の生活圏〉、〈生きものは動く〉、〈沖縄・久高島のイザイホー〉、テレビ番組〈楽しい動物百科〉、〈スーパーテレビ 北の動物家族〉、〈Lords of Hokkaido 〉、〈生きもの地球紀行〉、ビデオディスク〈動物映像大百科・全8巻〉、ビデオパケージ〈日本の音風景100選〉、〈重要無形文化財 雅楽〉など。
画像追加中 最終更新 2009.03.12.